昭和44年12月14 特別奉修委員
(?)と言う様な事が言われますね、信心さして頂いてまぁ御教えを頂けば頂く程、そこんところが実感されてくる訳ですけれど、空間とか時間と言う様なものも、実は信心にはないのですよね。(?)遠いから近いからと言った様な事もない。そういう意味でお互いの信心が、あのう例えていうと今日の、特別奉修委員の方達の御祈念が、私の身体のことを願うて下さり、思うて下さってこうして御祈念を、まぁして下さる訳ですが。
え~本当にその親先生のことを願うておるのですけれど、それはそのまま自分達のことを願っておる以上のことなのですね。もうほんとにあの例えば、時間とか空間とか、普遍性とかといわれるものがですね、そのあるんですよ。あの~御本部参拝をされる前の日だったでしょう、佐田さんが御神前に出られて、お初穂に毎日あの~親先生とこう書いておられる。ところが御心眼にね、「親の親」と、その親先生と書いてあるところへ、親の親と頂かれたというんですね。
ですから、例えば親先生のことを願うておられるのに、親の親と言やぁもう、先祖代々のことからありましょう、親のこともありましょうがね、例えばんなら日田にお母さんがおられる、こちらに勿論、両親がおられる。その先祖佐田の先祖もあろう、中野の先祖もあろうて。親先生のことがですね、そのようにこう丁度1つの波紋のようにね、広がって行く様なおかげに響いておると言う事を思う時にね、いかにこの自分の小さい信心というものから、脱皮しなければいけないかと言う事が分かりますよね。
遠いもなからなければ近いもない、清いこともなかなければ汚いこともない、というですね、その時間空間といものが無いのですからね、信心には。ですからその辺のところを、いかに自分の信心の内容ていうものを高められなきゃならんか、そこに参ってきとります、高橋さんとこの職人さんですけれど、そのあの人達が参ってきますと、必ずそのお店のことになるんですよね。あの人はあのう今、あちら岡山の方に行っとります、何とか言ったけなあの人。
あの人なんかもう久留米が里ですから、帰ってくるたんびに、あの以前お世話になっとったその三福さんのことを、しかも本当真剣な思いを持ってね、願うていくんですよ。
その真剣な思いって言う事は、どう言う事かというと、そのお初穂の内容で分かるんですよ。例えば( ? )、あのうちょっと並のもんじゃなかっですよね、もうその本当に祈りよるなと言う事を感じられるんですよね、そのおかげでね、あの滝原さんちいう、滝原ていいます、もう本当におかげを受けてる。
自分自身がねですから、自分のことを願うと言う事に一心にと言う事になるとですね。そういう、何て言うんですかね、限りないものに繋がっていかないわけですよ、これはね、ですからお互いの信心が折角、この様にしておかげ頂いておるのでございますから、しかもそれがですね、一人の信心ではなくて、例えば10人なら10人、20人なら20人の方達がですよね、そのことを願われる時にですね、こりゃ大変な力になるだろうと思うです。例えばなら、親先生がおかげ頂くて言う事じゃなくてですね。
いわゆるその、それに対する大きな波紋というものはね、今日はあのこのことをお願いさして頂きよりましたら、2、3日前に麻生さんが、お鍋さん持ってから裏に、おじいちゃま達にあげてくれちゆうて、持ってきたそうです。おつゆば持ってきとるとですよ。でぬくめて出してくれちゆうけん、おつゆどんあんた持ってきてからと思いよったところがその、珍しいおつゆだからというて持ってきてるんです。もういうなら、丁度がめ煮と同じ材料なんです。
けれどもこれは、もう気色の悪か、何が入っとか分からんぞと私達言ってから頂いたんですけどもね。その一つひとつが、例えば蓮根とかゴボウとか人参とか芋とかね、それからやま蒟蒻とかね、まだ沢山入っとるらしい、それがもう小さいさらに切ってあるけん分からんとです。牛肉もはいとるしねはてこれは、がめ煮入っとるとじゃかろうかていうて、気持ち悪かごたるけど、食べてみると美味しいんですよ。例えばならここに並んでおられる方が、人参の性格の人もあろう。
ゴボウの性格の人もあろう、蓮根の性格の人もあろう蒟蒻の性格の人もあろうという訳なんです。そのその2、3日前頂いたそのおつゆを頂くんですよ。はぁ例えば皆さんの、は、丁度あのようなものじゃなかろうか、だから決してなら人参がゴボウのごとなからなならんち言う事はないと言う事です。それぞれの持ち味というもの、しかもそれを一つのそのスープの中にですね、それぞれの味を出し合うていく、しかもそれがあのお互いのためではなくて、親先生を中心にしてからの願いというものがね。
いわゆる親の親と言う様なおかげに進展して行く事。いかに自分の信心が大きくならねばならんかと言う事が分かりましょもう本当に願いちいえば、自分のことだけ、自分の息子んことだけ、自分の親んことだけて言う様な事じゃなくてですね、私は御道の信心の普遍性といったようなものがね、そのようにして、あのそのように信心が育っていって、初めて信心の普遍性ということが言えるのじゃないかと、こう思うんですよ。そこにはもう、我もなからなければ他もないというね。
それでいて我が助かり、人が助かってるんです、いやむしろ、我が助かることは、もっとあかぬけしてるです、ただ自分のことだけを、それは部分的もんでしょう、けれども他が助かることに、その他の中に自分自身もあるということですよね。しかもそれが、神様のお喜び頂けることであるというのですから、お互いがですね、例えば今そこに、その三福の方が見えて、おりますがね、本当に毎日初めの間は、自分の親父さんに勧められて、しようことなしについて来た。
それが段々、自分のことが願われるようになり、兄弟のことが願われるようになり、親達のことが願われるようになり、同じ職人仲間のことが願われるようになり、本当に例えば三福なら三福のことがですね、祈れるようになられるように、この信心が育っていくと言う事は、そう言う事だと思うですね、それがなら取りも直さず、親の親にまで繋がっていくんですから、信心ちゃ尊いことだと思いますね。
どうぞ。